伊藤英明13年ぶりの舞台『橋からの眺め』から考える家族と愛

橋、ニューヨーク

9月22日と23日、東京公演のラスト近くに2日連続で鑑賞してきた『橋からの眺め』。東京の千秋楽を終え、京都で幕を閉じようとしています。

10年ほど前に『海猿』シリーズを見てからどっぷりと伊藤英明の沼にハマった私にとって、彼と同じ苗字であることを感謝するほど、俳優界の“推し”的な存在になっています。

そんな推しとの初対面(?)、彼の演技を生で見ることができるなんて!しかも二日間とも一番前!とワクワクして向かいました。東京芸術劇場は初めてで、かつ演劇を見たのも数えるほどなので、幕が上がるまで自分がキャストなのかと勘違いするほど緊張……。ここ一年、映画やドラマで見るよりも断然迫力があって、各回ある意味違った演技を見ることができる舞台の魅力に取りつかれています。

『橋からの眺め』東京芸術劇場内のポスター

舞台で感じた“愛”のかたち

さて、ワクワクして向かったものの、舞台の内容は決して明るいものではありませんでした。アーサー・ミラーというアメリカの劇作家が書いた1950年のニューヨークを舞台にしたこの物語。伊藤英明演じるエディは港での仕事で生計を立てており、妻ビクトリア(坂井真紀)と姪キャサリン(福地桃子)と共に暮らしています。そこにビクトリアのいとこ・マルコ(和田正人)とロドルフォ(松島庄汰)がイタリアから密航してやってきます。エディは彼らをかくまい、仕事を用意して手厚く迎えますが、キャサリンとロドルフォが恋仲になると一変、度が過ぎた過保護で二人はもちろん、ビクトリアとマルコとの関係も悪化してしまいます。

“度が過ぎた過保護”と書きましたが、とても愛が強く、エディは恋人への嫉妬ともとれるような、理不尽な行動を見せます。もしエディが父親だったら同じ行動をするでしょうか?私は、彼が叔父であり、かつビクトリアの姉の子のため血のつながりが無いことから、彼女との繋がりをより強固なものにしたかったのだと想像します。

そんなエディの過激な感情に、ビクトリアすら愛想をつかしてしまいます。自分は相手にされず姪のことばかり考えていること。自分では「嫉妬ではない」と話していましたが、ビクトリアとキャサリンの間にも嫉妬のような感情が生まれているのは事実です。

エディもビクトリアも、キャサリンを娘のように育ててきたのは確かでしょう。ただ、その中で、キャサリンがもう立派な大人であること、自分の手から離れてしまうことの寂しさや恐怖があったのではないでしょうか。

「橋からの眺め」より

ここからはかなりネタバレになりますが……

マルコも別の形で家族への愛をあらわにします。マルコはイタリアで職にありつけず、3人の子供と妻を飢えさせないためにもアメリカへ命がけで渡ってきました。その悲惨な状況は話が進むにつれて明らかになっていきます。必死に、真面目にお金を稼いでいるのです。しかし、エディはキャサリンを思うあまり、関係のないマルコにまで酷い仕打ちをすることになります。そこから温厚そうに見えたマルコが怒りを露わにして、クライマックスへ……。

純粋に、愛する家族の幸せだけを考えて行動していれば、みんな幸せな将来へ向かって生きていけたはずなのに、一つ感情を間違えただけで悲劇へと繋がっていく。結局は人間は、人の為と思って感情をむき出しにしても、それは結局自分の為なのかもしれません。

『橋からの眺め』舞台模型

物語としては結末はわかりやすいものになっていますが、演者たちの迫真の演技はもちろん、シーンによって上下する斬新な舞台装置、小道具の数々には目を奪われました。

少ないキャストだからこそ、一人ひとりの演技が際立ち、熱量でハッとさせられました。特に、私と同年代の福地さんのキャサリンは、子供らしさの残る愛されキャラであることが滲み出ていた気がします。

家族の難しさにフィーチャーしたドラマも

映画やドラマでも様々な家族、親子の形がフィーチャーされますが、今私がハマっている『ギルモア・ガールズ』も大きく母娘の関係が軸となっています。これについては別で書きたいなと思っているところです!

とにかく色々と考えさせられる作品であり、生で伊藤英明を拝めたことを大変嬉しく思います。そして50歳目前でも成長しようという意欲を持ち合わせていることは、今後も尊敬し続けるでしょう。私ももっと勉強して、舞台での演技や美術についても詳しくなったらもっと楽しめるだろうなと感じました。